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金殿陋屋出入自在(きんでんろうおくしゅつにゅうじざい)

豪華な屋敷も、みすぼらしいあばら屋にも自由自在に出入りするネズミを表すこの言葉。子年の色紙を今は亡き岫雲軒老大師に戴いた記憶がよみがえります。この心は我々禅僧のみならずこの世に生きる人間が持つべき大切な心ではないでしょうか?

いらぬプライドや意地で選り好みをして何もできずにいら立っている。そして何もできずに不平不満を口にしてはその現状に甘んじている。そんな経験をしたことは誰にでもあることではないでしょうか?色紙を書いてくださった岫雲軒老大師は誰とでも分け隔てなく、飾らず、気取らず、にこやかにお話をされるお方でした。その代わり修行僧に対しては厳しく誰もがピリッとした緊張に包まれるものがありました。一人の和尚としての姿、修行僧の指導をする老師としての姿、どちらの姿が本物の姿か?もちろんどちらも老大師の真のお姿です。

純心とはあるがまま、逢う人とは一つになって自他の壁を超えることであるということです。自分はこんな性格だから、自分は苦手だから、自分は分からないから、自分は、自分は、自分は、と言って向き合うことから逃げていては何も始まりません。多くの人が嫌がるネズミの姿を思い出してください。どんな所でも出没し、命を精一杯生きて、生き残るために必死に今を生きています。

コロナウイルスが猛威を振るう姿を見ると私はネズミに見えてしまいます。場所など気にせず自由自在、人間にとっては厄介な事この上ないですが、我々人間も自由自在の心をもって、自分勝手ではなく、自分に出来ることを自身の責任を持って向き合い、生きていかなければなりません。

一畜生と蔑み、卑しいと思うネズミからも気付きがある。その偏見をもって接している自身の卑しさを悔い改めて前に進むことが本当の意味での精進です。

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