top of page
logo1.png

宝冠釈迦如来のデザインを一新致しました。記念すべき最初の授与は四月の直書き御朱印授与日4月1日(土)・2日(日)からといたします。



桜花無尽蔵(おうかむじんぞう)

桜は咲いている時だけが桜の季節ではありません。散って、葉を茂らせ、葉を散らして冬に耐え、また年を越した春に花を咲かせる、つまりはどの季節も桜にとっては一所懸命の大切な時に変わりないのです。大自然の営みの目に見えて美しいと感じる所を旬であったり良い季節と捉えてしまうのが人間の良さでもあり、時に驕りでもあります。我々からすれば地味な移ろいの中に大切なものが潜んでいるのです。

二度の大寒波に京都は雪景色となりましたが、最近は陽だまりの温かさを感じる陽気となってまいりました。早く温かくならないかと待ち望んでいるのは私たちだけかもしれません。自然の営みは確かなものです。さて、3月の直書き御朱印・月替わり禅語御朱印のお知らせです。授与日は3月4日(土)・5日(日)となります。


丈夫心(じょうぶのこころ)

雪後始知松柏操 事難方見丈夫心(せつごはじめてしるしょうはくのみさお ことかたくしてまさにみる じょうぶのこころ)宗般玄芳という幕末から大正時代を生きた禅僧の言葉です。雪が降った後初めて常盤木の逞しさを知り、厳しい局面を経験した時、本当の強さが分かるという言葉です。

楽しい時だけ、嬉しい時だけを共有できることが果たして良いことでしょうか?苦しい、辛い、ぶつかり合うことなくして相手の本質を見ることは出来ません。その中で心身ともに強くなり本当の「丈夫の心」を手に入れることが出来るのです。


中道(ちゅうどう)

偏らないことが大切であるという事です。お釈迦様は厳しい苦行を長年積まれましたがそれだけでは真理には至らず、身を清め閑に瞑想をすることで悟りの境地を得られました。自分本意ではなく、自らに厳しく、そして優しくどちらか一つに偏らない生き方は現代人に必要なことです。


百花春至為誰開(百花春に至って 誰がために開く)

綺麗な春の花々を見て我々は「綺麗な花が春の訪れを知らせてくれた、咲いてくれてありがとう」と良く言います。春が来たことを知らせるために咲いたと思う人も多いのではないでしょうか?そのように考えることが出来る心をお持ちなのは素晴らしいことです。しかし花は咲くべくして咲くだけ、機が来たから咲いただけなのです。

この言葉は花に目が行きがちですが花とは自身の心ではないでしょうか?心は自分の内なるもの、その内なるものは誰の為でもない自分の為にあるのです。




大寒波が来るとニュースでは言っていた成人の日を含む一月の三連休でしたが、蓋を開けると春を彷彿とさせる暖かな気候で驚きました。新年を迎え本山恒例行事もコロナ以前の様式に戻り、一日も早い日常が戻ってくることを願って止みません。

さて二月の月例直書き御朱印授与日ですが4日(土)5日(日)とさせていただきます。節分に因んだ直書き御朱印を授与させていただきますので皆様是非お越しくださいませ。


外面如菩薩(げめんにょぼさつ)

外面如菩薩 内心如夜叉(げめんにょぼさつ ないしんにょやしゃ)という言葉がございます。外見は菩薩のような様子で、心の中は夜叉の如く残忍邪悪であることの例えです。

我々は世間体を大切にしすぎる世の中に生きており、また噂や見た目を本当に気にする生き物です。気付けば人の目を気にして自分と向き合わず、黒いものでも白と言う事だってある。最悪の場合目を背けて見ないふりをする。その様な姿勢に夜叉を感じずにはいられません。

誰々の為にという考え方を否定する気は毛頭ございませんが、その言葉が自身の思いから来ることを願っています。何よりも自分がしたいから、自分がそう思うかが大切なのです。節分に心の夜叉を祓いましょう。


鬼福同根(きふくどうこん)

誠に勝手ながら副住職の私自身が勝手に作りました造語です。節分の時に「鬼は外、福は内!」と声高に叫びながらいつも思っている事を言葉にしてみました。

「鬼とは何ぞや?」実際に鬼を見たことはないし、鬼とは恐ろしい生き物であるという認識が刷り込まれているが幼いころからの絵本や物語からの知識でしかない。むしろ今となっては人間が鬼に見えることがある。

お寺に生まれて一度だけ「お化け」を見た記憶がございます。本堂でのっぺらぼうの和尚さんを見たことが小学生の4年生の事でした。その時父である住職に泣きながら訴えると「お前の心に必要以上の怖いという思いと、うしろめたさがあったからみえたんや」と一蹴されたことを今でも思い出します。

人間の思いとは凄いものです。一度嫌なことがあるとその記憶は一生ものとなります。良いことがあるとそれもまた同じ。しかしその後の印象とやらは中々引きずられることがあります。「あんなに嫌な奴がこんな良い行いをするはずがない!」「あんなに素晴らしい人がこんな悪事をするはずがない!」なんて言葉の根拠はどこにあるのか?一つの事例に固執した向き合っていない考えとしか言いようがありません。

一つ言える事、様々な思いを感じることは我々に「心」という機能が存在するからです。常にコロコロと変化する中に放り出されているため中々思い通りにいかないものです。同じものを見て鬼と感じたり福と感じたり人によって様々です。様々な思いをたどればその行き着く先は「心」にあるのです。


賓主歴然(ひんじゅれきねん)

平等即差別、差別即平等、この世の不思議ですね。救われない人に手を差し伸べることは善行です。しかしその陰でまだまだ救われない人はいる。大多数の人にとって良いことは決して全ての人にとって良いことではない。屁理屈に聞こえるでしょうか?しかし紛うこと無き事実です。大切なのは常にこの世はとどまることが無いという事、形あるものは必ず滅するという事です。

私とあなた、大人と子供、男と女、大と小、低い高い、浅い深い、違いを認め合うだけでいい。どちらかが大切なのではなく、どちらも大切なのです。その様に考えれば自他の壁は自ずと消えていきます。どちらかに執着しているとまた差別が生まれます。




bottom of page