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◆日時◆

12月6日(土) 9時〜16時迄

12月7日(日)9時〜16時迄


◆場所◆

養徳院 書院「帯谷庵」


◆御朱印◆

【見開き】

悠然見南山(悠然として南山を見る)


飲酒 陶淵明


結廬在人境

而無車馬喧

問君何能爾

心遠地自偏

采菊東籬下

悠然見南山

山氣日夕佳

飛鳥相與還

此中有眞意

欲辨已忘言 

廬(いおり)を結(むす)びて人境(じんきょう)に在(あ)り

而(しか)も車馬(しゃば)の喧(かまびす)しき無(な)し

君(きみ)に問(と)う 何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)ると

心 遠(とお)ければ 地(ち)自(おのずか)ら偏(へん)なり

菊(きく)を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと)

悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)る

山気(さんき) 日夕(にっせき)に佳(よ)く

飛鳥(ひちょう) 相(あい)与(とも)に還(かえ)る

此(こ)の中(うち)に真意(しんい)有(あ)り

弁(べん)ぜんと欲(ほっ)し已(すで)に言(げん)を忘(わす)る

陶淵明は貴族文学が中国でもてはやされる時代の人物です。何度か出仕して最後は県令までなりますが全てを捨てて41歳の時に隠居生活を始めます。美辞麗句で必要以上に物や人物を称える詩が気にくわず、素朴なものや自然の妙景を詠う詩が素晴らしく禅の教えに通じることから良く我々も禅語として句を引用します。「心遠ければ地自ら偏なり」人里にいようが、そこに執着がなければ喧騒は無い。ハッとする言葉です。我々は周りの環境が自身の生活に影響を及ぼすと思っています。坐禅で寺に訪れた人は「このような環境で心静かに坐れました。」とうれしい言葉をかけてくれます。しかし私はいつも「坐禅は坐る場所があればどこでもできますよ」とあまり嬉しくないであろう言葉を返してしまいます。心の持ちようなのです。ここにいないと坐れないと思わしている自身の未熟さをいつも痛感します。この詩のような境涯を気付いてもらえるような禅僧になりたいものです。庭の花を摘みながら、ふと目に入った山を見て、自然を感じるような何気ない一コマに大きな気付きがあるのです。

【片面】

歳月不待人(歳月人を待たず)


雑詩 陶淵明


盛年不重來

一日難再晨

及時當勉勵

歳月不待人

盛年(せいねん)重(かさ)ねては来(き)たらず

一日(いちじつ)再(ふたた)びは晨(あした)なり難(がた)し

時(とき)に及(およ)びて当(まさ)に勉励(べんれい)すべし

歳月(さいげつ)は人(ひと)を待(ま)たず

 若い日々は二度と帰ってこない。

一日のうちに二度太陽は昇らないだろう?

今こそ我が人生に励み勤めて、また大いに楽しもう。

時は我々を待ってくれない。

雑詩の一部を抜粋しました。しがらみや執着を捨てた陶淵明らしい詩です。真実というものは至極単純なのです。しかし「そんな簡単であるわけがない!」と真実を直視しようとしない我々の執着が真実を語る人を批判せずにはいられないのでしょう。歳月人を待たず!沁みる喝です。

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迷己逐物

迷己(めいこ)とは自分自身の本質や方向性を見失い、迷ってしまうこと。逐物(ちくぶつ)は外的世界にある物質的なもの、人の心を引きつける現象や出来事を追い求めることです。

咲いた花を見て喜ぶ心があるのなら、咲かせた根っこの恩も知っている。しかし我々はきれいな花しか目に留まらないことが多いと思いませんか。春、日本各地で菜の花が咲き乱れる畑に多くの人がカメラをもって押しかけます。きれいな花が咲いている時は賑やかですが、畑の緑肥となってしまえばだれも見向きもしません。菜の花の有難さは見て美しいなんてことではなく、その命が肥料となり、転作障害を起こさないという何とも有難い存在なのです。

本来の面目は一体何なのか忘れて方向性を見失うのが人間です。自身の為にしていたことがいつしか変わってしまう。人に認めてもらいたくて自身の人生の舵を取ることは間違いです。菜の花を畑に咲かせたのに、その後何も作物を育てなければ本末転倒。自身の生活に似たような話はありませんか?我々が追い求めなければならないものは一体何でしょう。其々が一人一人向き合わなければなりません。

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11月直書き御朱印のお知らせ

◆日時◆

11月1日(土) 9時〜15時半迄

11月2日(日)9時〜16時迄


◆場所◆

養徳院 書院「帯谷庵」


◆御朱印◆

【見開き】

勝手なもので あんたがわしを 布袋にした

契此(かいし)という実在した禅僧がモデルとなっているのが布袋さんです。福々しくでっぷりとした巨漢で物乞いをして歩き、頂いたものは大きな袋に詰め込んで、何かを必要とする人がいれば頂いたものの中から分け与えていたそうです。素直な気持ちの持ち主で、人々を満ち足りた心に導く不思議な力を持っていたとも言われています。そのようなことから弥勒菩薩の化身と中国では信仰されているのが布袋さんです。

確かに実在した人ではありますが、弥勒菩薩の化身だと騒いだのは契此を見た人々です。彼の行動、立ち居振る舞いを見て皆がそう望んだのです。契此からしたら知ったこっちゃない。人間は望み、願う形に都合よく脳内変換しがちな生き物です。よく回ればいいんですが、気持ちが不純であればそこに見返りや不満を言い出してしまう弱い生き物です。

契此からしたら「知ったこっちゃない」そんな御朱印です。

【片面】

まるさんかくしかく

仙厓和尚が描いた謎多き「まる さんかく しかく」を書きました。鈴木大拙氏はこれを「〇」は無限、「△」は「すべての形体の初め」、「□」は△を2つ重ねたものであり、「この二重過程は、無限に続き、無数の事象が生じる」と述べ、本作は「仙厓の描いた宇宙」だと言いました。また中山喜一郎氏は、仙厓は書簡で悟りに達することができていない自分のことを「三角」と呼んでおり、三密を全うした状況を円に見立てて自らその状態を目指すことを述べており、こうした仙厓の哲学が反映されていると言いました。因みに子供たちが見ると「おでん」だそうです。

私の考えは「見ようによっては何とでも捉えられる」そんな感じでしょうか。しかし「私はこう思う」というような、闊達な思考の働きを促すことこそ大切ではないでしょうか。もしかすると仙厓さんは、「〇△□」を見た人間が必死に考えている姿を見て微笑んでいる気がします。

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