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◆日時◆

1月10日(土)11日(日)12日(月)

午前9時~午後4時迄

◆場所◆

養徳院 書院「帯谷庵」

◆御朱印◆

【見開き】

帰馬放牛 -きばほうぎゅう-

周の武王が殷を滅ぼした後、二度と戦争をしないと示したことに由来する「書経」の一節(武成)から引用しました。牛馬は当時、輸送と戦車を引く動物として戦争の時は重宝されていました。その牛馬をあるべきところに返して二度と戦争をしないという誓いを綴った漢詩です。

人間の進歩が生み出した様々な道具が戦争に使われ、多くの命を奪っています。ダイナマイトも掘削の効率化を図る発明でありましたが、戦争利用されて多くの命を奪いました。今はドローンが戦争に利用され、多くの命を奪う殺人マシーンと化しています。多くの人と繋がることが可能となったSNSが今や人を批判し合う戦場と化しています。他者との比較、自己肯定感をあげるための他者批判、日本は戦場ではありませんが、日本社会とそれを取り巻く環境はもはや戦場です。日本人同士が誰のためにもならない不毛な争いを繰り広げています。今我々が使っている様々な物が本来どのような目的で作られたか、今一度思い返していただきたい。

争いのない平和な世を望んだ人々の心境は当に「帰馬放牛」ではないでしょうか?長い争いが終わり、これからの世の中に求めることは穏やかな日常です。昨今のような世の中を望んで先人たちは命を我々につなげて来たのではありません。穏やかな世を作るために今我々に出来ることは何なのか、一人一人が向き合うことをあきらめてはいけません。


〈原文〉

歸馬于華山之陽 放牛于桃林之野 示天下弗服

〈書き下し文〉

厥(そ)の四月哉生明(さいせいめい)、王商より来りて、豊に至る。乃ち武を偃(ふ)せ文を修め、馬を華山の陽(みなみ)に帰し、牛を桃林の野に放ち、天下に服せざるを示す。

〈訳〉

戦争に用いた馬を華山の南に帰し、牛を桃林の野に放して、もはや武力を用いず、天下に戦争をしないことを示した。


【片面】

馬には乗ってみよ 人には添うてみよ

冷暖自知という言葉がございます。実際に経験してみなければ本当の意味での理解、気付きは無いという意味の禅語です。江戸時代の俳諧論書「毛吹草」に由来することわざ「馬には乗ってみよ人には添うてみよ」もこれに通ずるものがあるかと思います。美しい馬が必ずしもいい馬とは限りません。しかし人間は見た目がどうしても先行して物事の本質を見失い見た目が良いものを選びがちです。人もそうです。肩書や知名度に踊らされて人の本質を見失います。良い馬や良い人か見極めるためには、乗るなり実際に交流することが一番という事です。


無事是貴人-ぶじこれきにん-

臨済禅師の言葉です。貴人とは位が高い人という意味ではなく、悟りを開いた人と捉えてください。「悟りを得た人はどんな人か?」それは悟りを得ようと周りを探し回ることのない人です。神も仏も外に無く、清濁も自身の中にある。そう思う心を持つ自分の中に悟りがあるのです。



◆日時◆

12月6日(土) 9時〜16時迄

12月7日(日)9時〜16時迄


◆場所◆

養徳院 書院「帯谷庵」


◆御朱印◆

【見開き】

悠然見南山(悠然として南山を見る)


飲酒 陶淵明


結廬在人境

而無車馬喧

問君何能爾

心遠地自偏

采菊東籬下

悠然見南山

山氣日夕佳

飛鳥相與還

此中有眞意

欲辨已忘言 

廬(いおり)を結(むす)びて人境(じんきょう)に在(あ)り

而(しか)も車馬(しゃば)の喧(かまびす)しき無(な)し

君(きみ)に問(と)う 何(なん)ぞ能(よ)く爾(しか)ると

心 遠(とお)ければ 地(ち)自(おのずか)ら偏(へん)なり

菊(きく)を采(と)る 東籬(とうり)の下(もと)

悠然(ゆうぜん)として南山(なんざん)を見(み)る

山気(さんき) 日夕(にっせき)に佳(よ)く

飛鳥(ひちょう) 相(あい)与(とも)に還(かえ)る

此(こ)の中(うち)に真意(しんい)有(あ)り

弁(べん)ぜんと欲(ほっ)し已(すで)に言(げん)を忘(わす)る

陶淵明は貴族文学が中国でもてはやされる時代の人物です。何度か出仕して最後は県令までなりますが全てを捨てて41歳の時に隠居生活を始めます。美辞麗句で必要以上に物や人物を称える詩が気にくわず、素朴なものや自然の妙景を詠う詩が素晴らしく禅の教えに通じることから良く我々も禅語として句を引用します。「心遠ければ地自ら偏なり」人里にいようが、そこに執着がなければ喧騒は無い。ハッとする言葉です。我々は周りの環境が自身の生活に影響を及ぼすと思っています。坐禅で寺に訪れた人は「このような環境で心静かに坐れました。」とうれしい言葉をかけてくれます。しかし私はいつも「坐禅は坐る場所があればどこでもできますよ」とあまり嬉しくないであろう言葉を返してしまいます。心の持ちようなのです。ここにいないと坐れないと思わしている自身の未熟さをいつも痛感します。この詩のような境涯を気付いてもらえるような禅僧になりたいものです。庭の花を摘みながら、ふと目に入った山を見て、自然を感じるような何気ない一コマに大きな気付きがあるのです。

【片面】

歳月不待人(歳月人を待たず)


雑詩 陶淵明


盛年不重來

一日難再晨

及時當勉勵

歳月不待人

盛年(せいねん)重(かさ)ねては来(き)たらず

一日(いちじつ)再(ふたた)びは晨(あした)なり難(がた)し

時(とき)に及(およ)びて当(まさ)に勉励(べんれい)すべし

歳月(さいげつ)は人(ひと)を待(ま)たず

 若い日々は二度と帰ってこない。

一日のうちに二度太陽は昇らないだろう?

今こそ我が人生に励み勤めて、また大いに楽しもう。

時は我々を待ってくれない。

雑詩の一部を抜粋しました。しがらみや執着を捨てた陶淵明らしい詩です。真実というものは至極単純なのです。しかし「そんな簡単であるわけがない!」と真実を直視しようとしない我々の執着が真実を語る人を批判せずにはいられないのでしょう。歳月人を待たず!沁みる喝です。


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