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開山無相大師の御遺言から今の世の中に思う事

年の瀬迫る12月12日に妙心寺の御開山であられる関山慧玄禅師(無相大師)は風水泉のそばで旅支度のお姿で立ったまま亡くなられたと伝わっております。

無相大師の御遺言を御遺誡(ごゆいかい)と我々の世界ではいいます。

その一節に

「後昆直饒老僧を忘却するの日ありとも、應燈二祖の深恩を忘却せば、老僧が児孫にあらず。」

こうこんたといろうそうをぼうきゃくするのひありとも、おうとうにそのじんのんをぼうきゃくせば、ろうそうがじそんにあらず。


という文章があります。無相大師は自身の弟子に対して

「私の教えを忘れたとしても大應国師(建長寺御開山であり大徳寺御開山の師匠)・大燈国師(大徳寺御開山であり無相大師の師匠、建長寺御開山の弟子)の深い恩愛は決して忘れてはならない。もし忘れるようなことあらばお前たちは私の弟子ではない。

と仰ったのです。とても考えさせられる御遺言です。そしてその最後に


白雲は百丈の大功を感じ、虎丘は白雲の遺訓を歎ず。先規茲の如し、誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫んば好し。

はくうんはひゃくじょうのだいこうをかんじ、くきゅうははくうんのゆいくんをたんず。せんきかくのごとし、あやまってはをつみえだをたずぬることなくんばよし。


「白雲守端禅師は、百丈懐海禅師が昔、道場の規則を作られた大きな功績に深く感服された。虎丘紹隆禅師は、白雲守端禅師の残された訓戒を称歎し奉読していた。

間違っても、葉を摘んだ後に、その木が何であるかを確認するような本末転倒な真似をしてはならない。」と仰いました。

今の時代だからこそ、この教えを皆様に知っていただきたいと思うのです。多くの新しい考えが古い教えやしきたりなどを塗り替えて刷新されています。その新しい流れはしっかりと古き流れの良い所を残して磨かれたものでしょうか?面倒だ、古臭いと意味を理解しようともせずに盲目的に切り捨てていないですか?

京都におりますと多くの歴史的名勝、史跡が町のいたるところに点在し、また普通に使っているものでさえ歴史あるものが多々存在します。その謂われや内容を我々はどれほど知っているというのでしょう?若い人が茶の湯や華道の何たるかを知らずカフェやフラワーアレンジメントに注目するのは?礼儀作法の真意を理解することなくマニュアルに固執するのは?自分の足を使わず、インターネットでワード検索「京都 おススメ」と打って自分が行きたいなどは二の次、世の流行を第一に動くのはなぜ?言い出したらきりがございません。

日本らしさに興味関心がある外国の方々に何が話せましょう?そもそもなにをもって日本人でありましょう?私は新しいものが憎いのではありません。その中には良いものであると思うものもございます。その良いと思うものは、古くから日本にあったものを現代の文化に重ねたものです。先人の英知に敬意を表し、その英知をしっかりと引き継いだものです。

日本は小さな島国ですが、地域にそれぞれ独特の風習・文化が息づいております。その心を途絶えさせては意味がない。高僧の教えを脈々と伝えてきたことと同じように、日本の文化・伝統を脈々と受け継ぎ生きていくことが今の日本では薄れてきているとおもいます。

父母の恩、それを上回るご先祖の恩を忘れない、それを引き継ぎながら今を生きていくことの大切さを皆様年の瀬に今一度お考えいただけると幸いです。




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