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今を生きるとは

ある年の正月、黒田藩の役人が聖福寺に新年のご挨拶に来た。そのついで仙厓和尚に「何かめでたい言葉を書いて欲しい」と依頼したのである。仙厓義梵は了解しすぐに筆をとった。「祖死父死子死孫死」という言葉をしたため役人に渡すと彼は「どこがめでたいのか!」と憤慨した。しかし仙厓和尚は「爺さんが死んで次に親父が死ぬ、その次に子が死んで、そのまた後に孫が死ぬ。順序正しく死ねれば、家中に若死にするものがない。こんなめでたいことはない。」と話した。

年の順に死んでいくというのは当然ですが、しかし実際はそうではないことがあります。幼い子が病気で命を落としたり、川でおぼれ亡くなったり、誰かに殺められたりと自然の理に逆らう非情な現実が世の中にあります。その様な悲劇に見舞われる事無く生涯に幕を降ろすが出来ることは有難いことではありませんか?

「そうあるべき、そうあってほしい」自然の摂理すら有難く思えなくなっている実情が現代を生きる我々にはあると思います。多くの事に対して余裕がないのです。目の前の事ばかりで、積み重ねることをしなくなった。孫子の為に何かをするという考えが薄れているのです。私自身も戒めなければなりませんが、こうあってほしい幸せのために各々が出来る全力を尽くすのが今成すべき事ではないでしょうか?

今日本を取り巻く状況は複雑に絡み合い、人間本来の喜びや悲しみから逸脱した現実が数多く存在します。人の評価が一番になり自分の考えを持とうとする人がいない、和を大切にすると口では言いながらただの集団真理の中で伝えるべきことを伝えず事なかれ主義でいる、自分より裕福な人に嫉妬しそのストレスを他人にぶちまける、自分と違う意見を持つ人と向き合い対話することなく一方的に批判する。「貧すれば鈍する」とは当に今の我々の心を的確に表している言葉です。

確かに現状は変えなければなりません。しかしその現状は一人一人の怠慢が引き起こした現実なのです。この戒めを持たなければ例え生活水準が上がろうが将来的に今と同じような苦しみがいずれ訪れます。諸行無常、諸々の行いは常に同じと言うことは無いのです。苦しいところから這い上がり楽を見つけたらそれで終わりではないのです。その楽にすがって努めることを怠ればまた苦しみに突き落とされます。足るを知り、現状と常に向き合い続けることが出来る生き物、それが人間です。それこそが人間という生き物の素晴らしい特徴なのです。先ずは一歩を進みましょう。

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