変人の答え


変わった人だなぁと思う人は世の中に沢山いる。

例えばとても有名な豆腐をレポーターさんが食べて

「濃厚な大豆の風味と味わいを最大限活かした素晴らしい味です。まるで大豆を食べているようです。」

と言えば、我々はなんて分かりやすいレポートだろうと感心するでしょう。しかしこのレポートを聞いて、

「そんなら大豆を食えばエエだろう」

て言う人がいれば、なんてモノの表現を知らない人だろうと嫌な顔をするでしょう。我々が思う変人の答えです。

先日、妙心寺で毎月行われている禅道会のお手伝いに行き、霊雲院の老師様の講話を拝聴しておりました。無門関第9則「大通智勝」についてお話しておられました。


「大通智勝仏は十劫という長い間道場で坐禅をし続けた。しかし、仏法は現われず、仏道を完成できなかったと言われている。それはなぜかという問いを「なかなか良い質問だ。それはそもそも彼は仏なので、仏に成らないのだ」。と清譲和尚が答えた。


簡潔に言うとこのような内容の公案なのですが、老大師の皆様に対してお話になられた内容は「相対の世の中に染まった人間には中々分からんでしょう。おぎゃあと生まれてきた時は純心そのものなのに世間に生きるために教育を受け、社会の在り方を学べば学ぶほどその純心を忘れていく。」と仰いました。

一人一人が幸せに生きるために、決まりを守り生きていく。「あれはしちゃだめだよ、こうしなさい。」なんて躾はどこのご家庭も見受けられる当たり前の風景です。ですがなぜだめなのか?明確にならないまま、世間一般論でそう片付けていることが多いことも事実ではないでしょうか。

自分には物事を捉えることが出来るとても素晴らしい五感が備わっているというのに、その五感を信じる事無く、他の人間の意見を聞き自分で体感、経験しようとしない人の多いこの世の中。幸せの定義が外にあるのでしょうか?あなたの安心は他が与えるものでしょうか?

先ほどの豆腐のたとえ話に戻ります。大豆を食べているようなら大豆を食えばいい。豆腐は豆腐の良さがある。豆腐が美味いなら「美味い」で十分なのです。しかしそこにテレビの向こう側にいる視聴者の為に、お店の為に、レポーターとしての腕前を見せる為になんて思いが付帯して懇切丁寧で回りくどい説明がついてきてしまう。便利で苦労のない世の中とは時に不便なものですね。

苦しい、悲しい思いを知らずして楽しい、嬉しいことを知ることが出来ましょうか?これも対を成す言葉として我々学校で習ってきましたが本来混ざり合っているものなのです。なんで楽しい、嬉しいことだけが良いことなのか?苦しみ、悲しみは乗り越えて置き去りにするのか?苦しみ悲しみを捨て置いたつもりでいるのならそれは大きな間違い、いずれまた目の前にやってきます。

そもそも何も持って生まれてこない赤ん坊が知識を得て、体が発達し自分で出来ることが増えて大人になれば、やがて歳をとり体が言うことを聞かなくなり、あちこち体にガタがきて、病気もすればまた治り、気付けば老体になって、死んでゆく。生きていれば死が訪れる。喜怒哀楽は混ざり合っていることを何とかして区別しようとするから苦しむのです。

こんなに苦しんでいるのに、こんなに豆腐の魅力を伝えようとしているのに、自分が一番分っているでしょう?豆腐は豆腐なんです。

変人の答えだと耳を貸さないことは勿体ないことですよ。一休さんもめでたい正月にしゃれこうべをもって「ご用心!ご用心!」と仰いました。縁起でもねぇ坊主だなと一蹴する人がほとんどですが、一休さんの仰ることは真理をついています。めでたい正月であろうが死は関係なくやってくるぞ。嫌で、耳が痛いことかもしれませんが真実です。

外に情報が山ほど転がっている現代だからこそ、我々は自分の五感を信じて向き合っていかなければならないのです。

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ある和尚2人が言い合いをしている。 「風が吹いとるんだ!」「いやいや幡が揺れ動いとるんだ!」 何を言っているのだろうと見ていた慧能禅師という和尚さんが 「風でも幡でもない。あんたらの心が動いとるんよ」 そう言って去って行く。その言葉に二人の和尚は身震いして恐れおののいた この公案における風と幡は皆さんの実生活において何なのでしょう?そして心とは何なのでしょう? この話と向き合った時、してはいけない