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二月の月例直書き御朱印と書置き禅語御朱印のご案内

大寒波が来るとニュースでは言っていた成人の日を含む一月の三連休でしたが、蓋を開けると春を彷彿とさせる暖かな気候で驚きました。新年を迎え本山恒例行事もコロナ以前の様式に戻り、一日も早い日常が戻ってくることを願って止みません。

さて二月の月例直書き御朱印授与日ですが4日(土)5日(日)とさせていただきます。節分に因んだ直書き御朱印を授与させていただきますので皆様是非お越しくださいませ。


外面如菩薩(げめんにょぼさつ)

外面如菩薩 内心如夜叉(げめんにょぼさつ ないしんにょやしゃ)という言葉がございます。外見は菩薩のような様子で、心の中は夜叉の如く残忍邪悪であることの例えです。

我々は世間体を大切にしすぎる世の中に生きており、また噂や見た目を本当に気にする生き物です。気付けば人の目を気にして自分と向き合わず、黒いものでも白と言う事だってある。最悪の場合目を背けて見ないふりをする。その様な姿勢に夜叉を感じずにはいられません。

誰々の為にという考え方を否定する気は毛頭ございませんが、その言葉が自身の思いから来ることを願っています。何よりも自分がしたいから、自分がそう思うかが大切なのです。節分に心の夜叉を祓いましょう。


鬼福同根(きふくどうこん)

誠に勝手ながら副住職の私自身が勝手に作りました造語です。節分の時に「鬼は外、福は内!」と声高に叫びながらいつも思っている事を言葉にしてみました。

「鬼とは何ぞや?」実際に鬼を見たことはないし、鬼とは恐ろしい生き物であるという認識が刷り込まれているが幼いころからの絵本や物語からの知識でしかない。むしろ今となっては人間が鬼に見えることがある。

お寺に生まれて一度だけ「お化け」を見た記憶がございます。本堂でのっぺらぼうの和尚さんを見たことが小学生の4年生の事でした。その時父である住職に泣きながら訴えると「お前の心に必要以上の怖いという思いと、うしろめたさがあったからみえたんや」と一蹴されたことを今でも思い出します。

人間の思いとは凄いものです。一度嫌なことがあるとその記憶は一生ものとなります。良いことがあるとそれもまた同じ。しかしその後の印象とやらは中々引きずられることがあります。「あんなに嫌な奴がこんな良い行いをするはずがない!」「あんなに素晴らしい人がこんな悪事をするはずがない!」なんて言葉の根拠はどこにあるのか?一つの事例に固執した向き合っていない考えとしか言いようがありません。

一つ言える事、様々な思いを感じることは我々に「心」という機能が存在するからです。常にコロコロと変化する中に放り出されているため中々思い通りにいかないものです。同じものを見て鬼と感じたり福と感じたり人によって様々です。様々な思いをたどればその行き着く先は「心」にあるのです。


賓主歴然(ひんじゅれきねん)

平等即差別、差別即平等、この世の不思議ですね。救われない人に手を差し伸べることは善行です。しかしその陰でまだまだ救われない人はいる。大多数の人にとって良いことは決して全ての人にとって良いことではない。屁理屈に聞こえるでしょうか?しかし紛うこと無き事実です。大切なのは常にこの世はとどまることが無いという事、形あるものは必ず滅するという事です。

私とあなた、大人と子供、男と女、大と小、低い高い、浅い深い、違いを認め合うだけでいい。どちらかが大切なのではなく、どちらも大切なのです。その様に考えれば自他の壁は自ずと消えていきます。どちらかに執着しているとまた差別が生まれます。




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