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ある和尚2人が言い合いをしている。

「風が吹いとるんだ!」「いやいや幡が揺れ動いとるんだ!」

何を言っているのだろうと見ていた慧能禅師という和尚さんが

「風でも幡でもない。あんたらの心が動いとるんよ」

そう言って去って行く。その言葉に二人の和尚は身震いして恐れおののいた


この公案における風と幡は皆さんの実生活において何なのでしょう?そして心とは何なのでしょう?

この話と向き合った時、してはいけないと思いながら頭でしか考えていませんでした。

「心であるという事は目の前の事象に囚われるなという事で、物事の本質を見抜こうとしなければならないという事で………」頭ではわかっているが実が伴わない状態です。

禅宗の授業道場において一番大切な修行は「坐禅」である。と言われますが、だからと言ってそれだけをするわけではないのです。自分らの食うもんは自分たちで畑を耕し、馬糞をもらって腐葉土と混ぜ肥しも作り、庭の整備・寺の修理も出来る限り自分たちでする。お参りもあれば、托鉢も行くし、足元が悪い道があれば石畳も自分たちで敷く。坐禅のみならず後述の作業や動きも同じく大切なのです。

風が「坐禅」で幡が「坐禅以外」どこかで区別している自分がいたのです。坐禅を坐りたいのにひたすら石畳を敷かされてそれどころではない。まだ耕さないといけない畑があるのに坐禅をしなければいけない。相対の世界にどっぷりつかっている自分がいる。

これはもう執着の塊の他何物でもありません。目の前の事に精一杯向き合うことが修行道場では鉄則です。その結果失敗をしようが、成功しようがそんなことは関係ない。出来たら出来た、出来なかったら出来なかったそれだけなのです。結果どうなったなんてことは自分だけが分かればいいだけで、他人の評価を求めるものではない。慧能禅師の心とは一体何でしょう?皆さんにとっての風でもなく、幡でもない、心とは何でしょう?

大いにこねくり回して迷ってください。

  • 2022年6月12日

変わった人だなぁと思う人は世の中に沢山いる。

例えばとても有名な豆腐をレポーターさんが食べて

「濃厚な大豆の風味と味わいを最大限活かした素晴らしい味です。まるで大豆を食べているようです。」

と言えば、我々はなんて分かりやすいレポートだろうと感心するでしょう。しかしこのレポートを聞いて、

「そんなら大豆を食えばエエだろう」

て言う人がいれば、なんてモノの表現を知らない人だろうと嫌な顔をするでしょう。我々が思う変人の答えです。

先日、妙心寺で毎月行われている禅道会のお手伝いに行き、霊雲院の老師様の講話を拝聴しておりました。無門関第9則「大通智勝」についてお話しておられました。


「大通智勝仏は十劫という長い間道場で坐禅をし続けた。しかし、仏法は現われず、仏道を完成できなかったと言われている。それはなぜかという問いを「なかなか良い質問だ。それはそもそも彼は仏なので、仏に成らないのだ」。と清譲和尚が答えた。


簡潔に言うとこのような内容の公案なのですが、老大師の皆様に対してお話になられた内容は「相対の世の中に染まった人間には中々分からんでしょう。おぎゃあと生まれてきた時は純心そのものなのに世間に生きるために教育を受け、社会の在り方を学べば学ぶほどその純心を忘れていく。」と仰いました。

一人一人が幸せに生きるために、決まりを守り生きていく。「あれはしちゃだめだよ、こうしなさい。」なんて躾はどこのご家庭も見受けられる当たり前の風景です。ですがなぜだめなのか?明確にならないまま、世間一般論でそう片付けていることが多いことも事実ではないでしょうか。

自分には物事を捉えることが出来るとても素晴らしい五感が備わっているというのに、その五感を信じる事無く、他の人間の意見を聞き自分で体感、経験しようとしない人の多いこの世の中。幸せの定義が外にあるのでしょうか?あなたの安心は他が与えるものでしょうか?

先ほどの豆腐のたとえ話に戻ります。大豆を食べているようなら大豆を食えばいい。豆腐は豆腐の良さがある。豆腐が美味いなら「美味い」で十分なのです。しかしそこにテレビの向こう側にいる視聴者の為に、お店の為に、レポーターとしての腕前を見せる為になんて思いが付帯して懇切丁寧で回りくどい説明がついてきてしまう。便利で苦労のない世の中とは時に不便なものですね。

苦しい、悲しい思いを知らずして楽しい、嬉しいことを知ることが出来ましょうか?これも対を成す言葉として我々学校で習ってきましたが本来混ざり合っているものなのです。なんで楽しい、嬉しいことだけが良いことなのか?苦しみ、悲しみは乗り越えて置き去りにするのか?苦しみ悲しみを捨て置いたつもりでいるのならそれは大きな間違い、いずれまた目の前にやってきます。

そもそも何も持って生まれてこない赤ん坊が知識を得て、体が発達し自分で出来ることが増えて大人になれば、やがて歳をとり体が言うことを聞かなくなり、あちこち体にガタがきて、病気もすればまた治り、気付けば老体になって、死んでゆく。生きていれば死が訪れる。喜怒哀楽は混ざり合っていることを何とかして区別しようとするから苦しむのです。

こんなに苦しんでいるのに、こんなに豆腐の魅力を伝えようとしているのに、自分が一番分っているでしょう?豆腐は豆腐なんです。

変人の答えだと耳を貸さないことは勿体ないことですよ。一休さんもめでたい正月にしゃれこうべをもって「ご用心!ご用心!」と仰いました。縁起でもねぇ坊主だなと一蹴する人がほとんどですが、一休さんの仰ることは真理をついています。めでたい正月であろうが死は関係なくやってくるぞ。嫌で、耳が痛いことかもしれませんが真実です。

外に情報が山ほど転がっている現代だからこそ、我々は自分の五感を信じて向き合っていかなければならないのです。


朝晩の涼しさが有難くこのままの気候を望んでしまう京都ですが、日中はいよいよ夏模様。今年も覚悟を決めなければなりませんね。さて、7月の直書き御朱印授与日は2日(土)3日(日)でございます。皆様くれぐれも熱中症、脱水症状にはお気を付けください。


蓮生泥中(はすでいちゅうにしょうず)

7月ごろから9月にかけて蓮が日本各地で咲き出します。蓮の花を見たさに日本各地の名所を訪れる方も多いのではないでしょうか。

「花より団子」という言葉がありますが、我々人間はいつまでたってもこの言葉の通りな所が抜けきらないもんです。若しくは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とも言えるかもしれません。良いこと、楽しいことの有難さは当たり前だと言わんばかりにすぐ忘れます。しかしながら苦しみ、憎しみ、怒り、飢えなんて感情は親の仇と言わんばかりに引きずって生きている。

泥の中にありながら力いっぱい根を張って、美しい花を咲かす蓮。その様な進化を遂げただけと言えばそれは人間の知識の浅はかさでしょう。「あの人は頭がいいから」「あの人は力持ちだから」「あの人は顔が可愛いから」なんて言って現実から目を背けて、自分と向き合わない人間のたわ言です。自分と向き合うことの大切さを蓮から学ぶことが出来るのです。

泥中にありながら見るものを魅了する蓮は生まれます。時代や出生のせいにせず今をしっかり歩んでいきましょう。


祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)

祇園祭が今年は神事のみならずコロナ以前のように行われるそうですね。山鉾が立ち並ぶ京の町は夏の訪れを感じさせる京都の情景です。

祇園祭の「祇園」とはそもそも仏教の言葉が由来となっております。神仏習合の時代、八坂神社は比叡山に属し祇園社という名称でした。その「祇園」という言葉はお釈迦様が説法を行った場所であり、仏教の聖なる場所「天竺五精舎」に数えられる「祇園精舎」から来ているのです。

須達多という大富豪が祇陀太子という人から土地を譲り受けお寺を建立したのがこの「祇園精舎」です。祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)というのが正式名称で須達多は身寄りのない人々に食事を与えそのために財をなげうつことを惜しまなかったことから給孤独者と呼ばれていました。祇陀太子が持っていた林に給孤独者が私財を投じて建てた精舎(寺院)であるから祇園精舎となったのです。

なぜこのような場所を須達多が作ろうかと思ったのか。当時お釈迦様は各地を歩き、教えを説いておられましたが、雨季は虫や植物などを多く踏みつけて殺生してしまうため、雨季だけは建物内で修行するようになっておりました。しかし教団にはその為にふさわしい施設を欠いていたのです。このことから須達多はお釈迦様と修行者、その教えを聞きたい大衆の為に祇園精舎を立てることを発願したのです。

さて、祇園祭は祇園御霊会と昔呼ばれておりました。疫病は恨みを残して死んでいった人々の怨霊がそうさせると信じられており、その怨霊を鎮めるために行われていた行事が今の祇園祭の起源なのです。「人々が穏やかな日々を」という思いのもと京都で行われる祇園祭には須達多の持っていた命を慈しむ心に通じるものがあるのではないでしょうか。人々の無病息災を祈る心、その心と共に今年は鉾を眺める祇園祭としたいものです。


青山元不動(せいざんもとふどう)

青山元不動 白雲自去来(せいざんもとふどう はくうんおのずからきょらいす)

山の景色や天気は季節や状況でころころ変わりますが、そこにある山は動かずそこにあります。人の目、流行の移り変わりなんてものを追いかけてもそんなものはお天気雨みたいなものです。気付けば止んでいる雨で一瞬の出来事です。それよりも大切なものがあるだろう、そう気付かせてくれる禅語です。

私にとっての青山は何か?私にとっての去来する雲は何か考えて生きましょう。


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