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朝晩の涼しさが有難くこのままの気候を望んでしまう京都ですが、日中はいよいよ夏模様。今年も覚悟を決めなければなりませんね。さて、7月の直書き御朱印授与日は2日(土)3日(日)でございます。皆様くれぐれも熱中症、脱水症状にはお気を付けください。


蓮生泥中(はすでいちゅうにしょうず)

7月ごろから9月にかけて蓮が日本各地で咲き出します。蓮の花を見たさに日本各地の名所を訪れる方も多いのではないでしょうか。

「花より団子」という言葉がありますが、我々人間はいつまでたってもこの言葉の通りな所が抜けきらないもんです。若しくは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とも言えるかもしれません。良いこと、楽しいことの有難さは当たり前だと言わんばかりにすぐ忘れます。しかしながら苦しみ、憎しみ、怒り、飢えなんて感情は親の仇と言わんばかりに引きずって生きている。

泥の中にありながら力いっぱい根を張って、美しい花を咲かす蓮。その様な進化を遂げただけと言えばそれは人間の知識の浅はかさでしょう。「あの人は頭がいいから」「あの人は力持ちだから」「あの人は顔が可愛いから」なんて言って現実から目を背けて、自分と向き合わない人間のたわ言です。自分と向き合うことの大切さを蓮から学ぶことが出来るのです。

泥中にありながら見るものを魅了する蓮は生まれます。時代や出生のせいにせず今をしっかり歩んでいきましょう。


祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)

祇園祭が今年は神事のみならずコロナ以前のように行われるそうですね。山鉾が立ち並ぶ京の町は夏の訪れを感じさせる京都の情景です。

祇園祭の「祇園」とはそもそも仏教の言葉が由来となっております。神仏習合の時代、八坂神社は比叡山に属し祇園社という名称でした。その「祇園」という言葉はお釈迦様が説法を行った場所であり、仏教の聖なる場所「天竺五精舎」に数えられる「祇園精舎」から来ているのです。

須達多という大富豪が祇陀太子という人から土地を譲り受けお寺を建立したのがこの「祇園精舎」です。祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)というのが正式名称で須達多は身寄りのない人々に食事を与えそのために財をなげうつことを惜しまなかったことから給孤独者と呼ばれていました。祇陀太子が持っていた林に給孤独者が私財を投じて建てた精舎(寺院)であるから祇園精舎となったのです。

なぜこのような場所を須達多が作ろうかと思ったのか。当時お釈迦様は各地を歩き、教えを説いておられましたが、雨季は虫や植物などを多く踏みつけて殺生してしまうため、雨季だけは建物内で修行するようになっておりました。しかし教団にはその為にふさわしい施設を欠いていたのです。このことから須達多はお釈迦様と修行者、その教えを聞きたい大衆の為に祇園精舎を立てることを発願したのです。

さて、祇園祭は祇園御霊会と昔呼ばれておりました。疫病は恨みを残して死んでいった人々の怨霊がそうさせると信じられており、その怨霊を鎮めるために行われていた行事が今の祇園祭の起源なのです。「人々が穏やかな日々を」という思いのもと京都で行われる祇園祭には須達多の持っていた命を慈しむ心に通じるものがあるのではないでしょうか。人々の無病息災を祈る心、その心と共に今年は鉾を眺める祇園祭としたいものです。


青山元不動(せいざんもとふどう)

青山元不動 白雲自去来(せいざんもとふどう はくうんおのずからきょらいす)

山の景色や天気は季節や状況でころころ変わりますが、そこにある山は動かずそこにあります。人の目、流行の移り変わりなんてものを追いかけてもそんなものはお天気雨みたいなものです。気付けば止んでいる雨で一瞬の出来事です。それよりも大切なものがあるだろう、そう気付かせてくれる禅語です。

私にとっての青山は何か?私にとっての去来する雲は何か考えて生きましょう。




6月の月例御朱印授与日は4日(土)5日(日)です。


蛙鳴是仏声(あめいこれぶっしょう)

蛙鳴蝉噪是仏声(あめいせんそうこれぶっしょう)という言葉がございます。ゲコゲコとなくカエル、ミンミンと喧しい蝉、美しい声とはお世辞にも言えない生き物です。しかしその声を嫌う心はもっと醜い。精一杯生きるために鳴いている真剣な姿を蔑む心は美しいとは言えません。「カエルや蝉の声が喧しい」と思うのではなく「一生懸命鳴いているな」と思える心が仏の心と言えるのです。


潤乾坤(けんこんうるおす)

「一滴乾坤を潤す」一滴の水が天地を潤す様の言葉です。

一粒の水が世界を潤すわけがない。確かにそうかもしれんません。

しかしこんな話があります。

江戸時代の農政家として有名な大原幽学は松尾寺で提宗和尚に教えを賜わります。宗教に対して並々ならぬ関心があった幽学は多くの教えを納得できず、仏教の教えを教わるため提宗和尚を訪ねました。

するといきなり米を研がされます。小間使いされている気になりながら研ぎ終わると提宗和尚に烈火のごとく怒られます。

「お前の腐った根性を見せてやるからそろばんをとってこい」そう提宗和尚に言われ一粒の米から24の芽が出て、更に24の芽が育つと24本の稲になり、一つの稲から300の米粒が取れることを説かれます。「24の稲からとれる米粒は一合4勺の米に価する、その米粒全てを翌年すべて撒いたらどうなる?更にそこから収穫された米を撒けばどうなる?」幽学がオロオロしていると「米一粒であれ、ただで生まれてくるわけがないだろう!その米粒の一つ一つに愛情を注いでいる百姓を見てきたのではないのか!そんなことも分からんお前が偉そうに宗教を納得できないなど聞いて呆れる!」

いかがでしょう?一粒の水であれ、米粒であれ扱う心があれば無限の可能性がある。その可能性が世界を潤すのです。

結果自然成(けっかじねんとなる)

一華開五葉 結果自然成(いっかごようをひらき けっかじねんとなる)

お釈迦様が興した仏教はインドから中国、朝鮮半島を経て日本へ、今では世界中に知られる宗教となりました。花開けば自然の流れで枯れ、種を結び、新たな命が芽吹く。当たり前ではありますがその流れは我々人間でも同じです。ご先祖様が繋いだ命を今頂戴して生きている。素の尊さを理解して己の命が尽きるその日まで精進することが大切なのです。




庭の新緑が美しい時期となりました。お寺に来て、ゆっくりと眺めていただきたいと思います。

5月の直書き御朱印は5月7日(土)8日(日)です。


明月払清風(明月清風を払う)

「清風明月を払い、名月清風を払う」

清らかな風が明月を払い清め、明月の明かりが清風を清めるという意味の言葉です。

互いに作用しあって素晴らしい情景が完成している。互いを認め合う心の大切さをこの言葉から感じずにはいられません。参拝していただく方に

「いつもありがとうございます」

と声をかけていただくのですが、我々こそ

「いつもありがとうございます」

なのです。お寺はそこに訪れていただく方がいるからこそ市井に存在する意義があります。皆様の生活や存在もそうです。本当の意味での「お陰様」と向き合う時間を持ちましょう。


一喝

悟りを得させるための叱咤や、大声で叱りつけることと辞典を引けば出てきます。叱咤とは大声をあげて叱る、叱って励ますという事ですが「一喝」はその限りではありません。

昨今は「優しく育てる教育」という言葉がひとり歩きしていると感じます。優しさとは一体何なのか?丸い言葉や柔らかい物腰ですか?甚だ疑問です。真剣に向き合うからこそ出る働きがあるのではないでしょうか?真剣に向き合うからこそ出る働きが「一喝」という言葉に集約しているのです。相手を思うからこそ出来る行為はその行為に責任が出ます。自身がどう思われようと真剣な働きに相手が心打たれるのはそこに相手の責任を感じるからです。

厳しくも優しい、そんな経験は誰しもあるのではないでしょうか?今の人たちはそのような「一喝」に飢えているのではないでしょうか?


明歴々露堂々

はっきりとしている、隠すこともない様子という意味の言葉です。色々なことに振り回される私たち、自分自身が見たこと以外で見たような気持になっていることはありませんか?ジブリアニメで「もののけ姫」という作品があることは皆さんご存じでしょう。主人公のアシタカが「曇りなき眼で見定める」と言うシーンがあります。私は修行道場に行く前と、行った後でこの言葉の深みを感じずにいられませんでした。実際にその場所に行ったり、人に会ったりすることの大切さ、現代人が大切にするべきことは「五感」ではないでしょうか。


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