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  • 2021年12月2日

先日京都伊右衛門カフェ様にて精進料理のご試食と禅が大切に考える「精進」のお話を皆様にさせていただきました。

季節の食材を駆けずり回って集める、手間をかけて作る、食べる方を思って作る、所作を綿密にすることが本当の意味での「おもてなし」ではないでしょうか?相手を思った細やかな気配り、自分と他人の垣根を越えて一体となるよう努める「自他不二」の精神を形骸化させてはいけないと思うのです。

何のために人と人が様々な形で交わるのか?その本質はマニュアルなんかでは分かりませんよ。其々が見つめなければなりません。料理一つとってもそうそこでの経験はありとあらゆる事に応用できるのですから。貴重な経験を有難うございました。


  • 2021年7月10日

「いただきます。ごちそうさま。」

我々が当たり前に食前、食後に発する言葉は諸説ありますが、昭和に入り定着した言葉です。

私はこの言葉が大好きでたまりません。

素晴らしいご縁を賜り一汁一菜の精進料理とお話をさせていただきました。

臨済宗の修行道場の食事風景に言葉が出てくるのは、食事の時に読み上げるお経の声だけです。その中でも今回は施食の偈、食事五観文、食事誓願の偈、食事の偈を皆様にお伝えすることで「いただきます。ごちそうさま。」に込められた純粋かつ明瞭な意味を合わせてお伝えいたしました。

自分がいただく食べ物も等しくこの世に生を受けた命、自らが生きるためにその命を食らう、その事への感謝。そして命をいただいて繋いだこの命を必ずや活かして今日を生きる決意。食事という当たり前に我々が行う日常にこのこころを持ってもらう。精進料理を通じて説法をする事までが私は必要であると思うわけです。

礼儀作法の形骸化が進む昨今、私が多くの人々にお伝えしたい事を伝える場を賜りましたこと感謝申し上げます。

  • 2021年1月10日

 建仁寺の修行道場では、小豆と玄米を炊いて、昆布で出汁をとった汁をかけてお茶漬けのように食べる料理のことを言います。

 修行道場によってこの豆粥の作り方は異なります。本来「粥」ですから建仁寺の作り方は独特で、また豪華ではないかと思います。

 この料理が食べられる時は1日と15日の朝で、祝聖(しゅくしん)という行事の後に食べます。

 祝聖とは古来中国における皇帝、日本にあっては天皇陛下の健やかなること、無事であることを祈り、さらに民衆の安心を祈る宗教行事です。

 普段の修行道場の朝御飯は「粥座(しゅくざ)」といい、天井が透けて見える、鏡のように天井が映るくらい薄い粥を食べます。しかし、祝聖の朝は栄養もしっかりあり、縁起物でもある小豆を採ることが許されるのです。

 自分の体調を調えるだけでなく、贅沢な食事をいただけるというこの日を有り難く思い、精進することを強く誓う。また逢う人には法を説き、衆生救済に精進する為にこの食を戴くのです。

 このように食事にしても人間は思いを込めて作り、いただきます。今我々が大切にするべき事はこういった心を大切にすることです。

 心を込めようとすれば形になり、それがしきたりや作法となります。そしてその積み重ねによりやがては文化、風習として各地に根付くのです。

 我々はあまりにも心を知ろうとしなくなりました。その理解無く惰性で続けた結果「面倒だ、鬱陶しい」と簡略化、挙げ句の果てに消し去っています。向き合うことを面倒に思うことが今の日本人は「便利」とはき違えているのではないでしょうか?

 心を尽くすと軽やかな風が吹き爽やかな気持ちになるものですよ。今面倒だとしていないこと見直して見ませんか?せっかくのコロナで家にいる機会が多いのですから。ボーッとしてるなら、YouTubeを眉尻と見ているくらいならそっちの方が有意義ってもんですよ.



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