風にあらず幡にあらず

ある和尚2人が言い合いをしている。

「風が吹いとるんだ!」「いやいや幡が揺れ動いとるんだ!」

何を言っているのだろうと見ていた慧能禅師という和尚さんが

「風でも幡でもない。あんたらの心が動いとるんよ」

そう言って去って行く。その言葉に二人の和尚は身震いして恐れおののいた


この公案における風と幡は皆さんの実生活において何なのでしょう?そして心とは何なのでしょう?

この話と向き合った時、してはいけないと思いながら頭でしか考えていませんでした。

「心であるという事は目の前の事象に囚われるなという事で、物事の本質を見抜こうとしなければならないという事で………」頭ではわかっているが実が伴わない状態です。

禅宗の授業道場において一番大切な修行は「坐禅」である。と言われますが、だからと言ってそれだけをするわけではないのです。自分らの食うもんは自分たちで畑を耕し、馬糞をもらって腐葉土と混ぜ肥しも作り、庭の整備・寺の修理も出来る限り自分たちでする。お参りもあれば、托鉢も行くし、足元が悪い道があれば石畳も自分たちで敷く。坐禅のみならず後述の作業や動きも同じく大切なのです。

風が「坐禅」で幡が「坐禅以外」どこかで区別している自分がいたのです。坐禅を坐りたいのにひたすら石畳を敷かされてそれどころではない。まだ耕さないといけない畑があるのに坐禅をしなければいけない。相対の世界にどっぷりつかっている自分がいる。

これはもう執着の塊の他何物でもありません。目の前の事に精一杯向き合うことが修行道場では鉄則です。その結果失敗をしようが、成功しようがそんなことは関係ない。出来たら出来た、出来なかったら出来なかったそれだけなのです。結果どうなったなんてことは自分だけが分かればいいだけで、他人の評価を求めるものではない。慧能禅師の心とは一体何でしょう?皆さんにとっての風でもなく、幡でもない、心とは何でしょう?

大いにこねくり回して迷ってください。