top of page
logo1.png

啐啄同時とナイスタイミングは少し違う

ナイスタイミングとはどういった時でしょう?

例えば「お茶が飲みたいな。」そんな時にサッとお茶が呈せられる。「気が利くなぁ、できる人だなぁ。」と思います。ナイスタイミングです。でもこれが当たり前になってしまうと、「のどが渇いたなぁ。」と言ってから「今から茶を入れますね。」と言われると「気が効かないし、対応が遅いなぁ」思ってしまいます。人間とは本当に傲慢です。

啐啄同時とは絶好の機会のこと。また、学ぶ者と指導者の呼吸がぴったり合うことです。では今あげたナイスタイミングは啐啄同時の事だと思いますか?私は少し違うと思います。

禅宗では「公案問答」と言う師匠と弟子が一対一で行う問答があります。一般的な問題のように決まった答えはありません、これが厄介なんです。誰かと同じ問題をもらっても人と自分では答えが違うのです。困った問題ですよね。

では禅的質問をしましょう。

雨が降る様子を見て漁師さんは「船が出せないし漁ができん!」と嘆いています。一方農家の方は「雨のおかげで苗が生き生きとしている」と喜んでいます。その人の職業や性格で同じ状況でも反応は様々だ。こんな文章が公案問答の問です。だから何だ?となりますね。

ですが互いに共通する事があります。それは雨が降るという状況です。雨が降るという状況一つ取ってしても心ひとつで良くも悪くもとらえることが出来てしまう。この共通することを表現するならばあなたならどうする?それが答えとして求められるのです。あなたらしい答え方で根本に迫るからこそ答え方は人の数だけあるのです。そりゃ人と答えが違うわけです。

「公案問答」の話が長くなりました、話を戻します。私が思う啐啄同時とは「互いに高め合う中で機を逃さない。」という事です。「痒い所に手が届く」や「転ばぬ先の杖」とは違います。今これをしてあげれば相手が楽になるだろうということではありません。「最大限努めるんだ!もうこれ以上は力尽きてしまう!あと一歩なのに!」そこで背中を押してあげることが啐啄同時なのです。

この絶妙で絶好の機会を見極めることは容易ではありません。人生を狂わせるかもしれないし、下手すりゃ命も落としかねない。だからこそ禅宗では生きる事は経験を積むことが大切で、頭だけでなく体験が伴わなければならないのです。公案問答の答えの様に、人生における最適解それは一つではありません。今を生きるという大地の上に様々な生き方という無数の生命体があることを忘れてはならないのです。

最新記事

すべて表示

八風吹けども動ぜず

有りとあらゆることが身に降りかかることが有り難い。 「鬱になったことはあるか?」たまに言われます。「あるんじゃないですか、だったら何だ?人間の感情なんて振り子みたいなもんですよ。」私なりの考えです。 安心と不安を行き来するし、怒りと喜びを繰り返す。楽しいと思ったら苦しく感じ...

Comments


bottom of page